備忘録的コラム集

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劣等意識の対象〜なぜ大谷選手に「劣っている」と思うのか〜

最近、こんな表現を見かけた。「大谷翔平はずるい。」 私ははっとした。二刀流という今までの概念を覆す存在を前に、メディアがこぞって賛辞を送る一方で、二物を与えた天に対してこの世の不公平を訴える者もいるのだ。賞賛と嫉妬というこのアンビバレントな感情はなぜ生じ、またなぜ人によってその比重が異なるのか。その思料を深める一助として60年も前に出版されたアメリカの小説「肩をすくめるアトラス」があるだろう。

彼女の小説にはこんなシーンがある。主人公はある廃屋で、静電気から電力を生み出すモーターを発見する。そして様々な科学者にモーターを持っていき、製造方法がわかららないか尋ねて回っていたが、誰も推察出来ない。そんな中、科学者の一人がこう言った。「作り方がわかったとしても、僕はモーターを製造すべきだとは思いません。今ある何よりも優ってしまって並の科学者に不公平になります。彼らが業績を残したり能力を発揮したりする余地を少しも残さなくなるのですからね。強者が弱者の自尊心を傷つける権利があるとは僕は思いません。」

これが「アメリカ」の小説であるということに驚きを隠せない者もいるだろう。「出る杭は打たれる」文化は日本特有のものと捉えられがちだが、このようなメンタリティは日本に限らないということだ。

よくよく考えてみれば、大谷が160kmを投げ、特大ホームランを打つという華々しい活躍を遂げる裏で、投打で敵わず唇を噛む野球選手も大勢いるのだ。そして彼らは以降全て、絶対的には素晴らしい業績でも相対的には大きくない業績と評され、生きていくことになる。そういった意味で、大谷は活躍すればするほど、多くの人々の自尊心を傷つけていくことになる。しかし、お茶の間の主婦と野球選手とでは大谷選手に対する賞賛する心と劣等感の割合は異なるだろう。この割合の違いは、一体どこに起因するのだろうか。

まず第一に思いつくのは「基準のプライオリティ」である。野球選手にとって野球の能力の多寡は当然、レゾンデートルの大きな部分を占める。しかし主婦にとって大谷選手の活躍は自己とは別世界の話題であり、彼がどれほど活躍しようが自分の生活・アイデンティティに対する影響は小さい(もっとも、同じ日本人としての誇りについての影響はあるかもしれないが)。このように、「野球選手として自分がどれだけ価値があるか」という基準が自身にとってどれほどプライオリティの高いものなのかが一つの指標になりうることは直感的に思い浮かぶ。

しかし東にイチローのように賛辞を送る者がいれば、西におよそ野球をしたことがないがネットで批判的な書き込みを行う者もいる。よって野球能力という基準以外の割合の違いが要素としてあり得ることがわかる。この第二の基準は、「他者からの承認度合い」である。

マズローは人間の欲求を5段階に分けて捉えた。それは「生理的欲求」「安全欲求」「社会的欲求」「尊厳欲求」「自己実現欲求」である。この内第二段階までの欲求は他者の業績と比較して知覚されるものではない。また、自己実現欲求も自己の内部で完結する部分が大きい。したがって大谷の功績によって揺さぶられる欲求とは「社会的欲求」および「尊厳欲求」であるといえよう。社会的欲求は自己をどこかへ帰属させたいという欲求である。この欲求が不足している者にとり、華々しい世界に身をおいている大谷は劣等意識を強く抱かせるものになる。尊厳欲求は他者から尊敬されたいという欲求であるが、こちらも大谷に送られる賛辞を認識すればするほど自己の矮小さを知覚してしまうことになる。

ここまでをまとめると、劣等意識には、ある個人が重要視している軸に他者を置き、そこで自己に比して他者がその軸においてより高い位置に存在する際に感じられる「基準による劣等意識」と、自己の承認欲求が満たされていない状態で承認されている他者を認知することで抱く「賞賛への劣等意識」の二種類があるのではないか、というのが私の見解である。

これ以上書きたいところではあるし、かつ見返せば自らの表現に至らなさ、考察の浅さが痛切に感じられるものの、紙幅にゆとりがないこととして立ち去ることとする。

コラム1:政治に対するコペルニクス的視点を持て

かのコペルニクスはこう言った。「太陽が回っているのではない、地球が回っているのだ」と。今では太陽が動いているという人がいればお笑い草となろうが、長年人間は、自身の目で見た直感を信じ、それを当然のものだと考えてきた。しかし、太陽が動くのを否定できても、同様のことを我々は今でも行っているところがあるのではないか。その最たるものが政治である。トルストイ戦争と平和で、歴史とはナポレオンやカエサルのような一人の傑物によって作り出されるものではなく、その時代に生きていた一人ひとりが互いに影響し合いながら、一定の歴史法則に従って生み出されるものであると述べた。現代風に言い換えれば、我々はトランプ大統領が、習近平が、安倍首相が国の趨勢を司り、舵取りをしているというイメージがあるが、彼らもまた世界の法則の下で揺れ動く一役者にすぎないというのである。根底に流れる法則・潮流は、先人たちから「今」を受け継いだ我々個人個人による営みを基盤としながら、その営みの総体によって紡ぎ出される。つまり、私達が個人として意識すべきは、「総体」の動きと「個人」の動きの関連性ではなく、様々な社会科学の研究によって得られた「法則」という知見から「総体」の動きを捉えることであるといえよう。社会科学とはそのために存在するものであり、決して個人の具体的営みから総体を推察するという方向からの推察に終始してはならない。私達が見えるものからのみ物事を判断するのでは、太陽はいつまでも私達の周りを回る存在としか認識し得ないだろう。